新潟日報連載26-30


26、ぽんせんべい(02年7月29日

  小さいころ、わたしの家の隣には父の弟の家があった。父の弟の招集は、二番目の子供がおなかにいるときだった。生まれてくる子供が男なら征男、女なら征子と命名して故郷を出た。そしてすぐ乗り組んだ南洋へ向かう輸送船ごと海の底に沈められた。やがて、わたしと同じ年の女の子が生まれ、征子と名付けられた。と、聞いている。
  昭和十八年生まれのわたしの記憶は戦後から始まる。そのごく古い底の方で征子の母が、ぽんせんべいを焼いている。だるまストーブのような機械の前にすわって、「どん」と音がすると出来上がり。客から預かった米をせんべいにして納めるのと、自分で調達した米で作って売るのと両方だった。時々大きな荷物を背負って出かけた。子供心にも楽ではない暮らしだと想像がついていたと思う。が、とにかく征子の母の側で遊びながら、その失敗作のかけらをもらって食べるのが楽しみだった。
  暑い日だった。征子の母は手ぬぐいで汗をふきふき作業していた。側で遊んでいたわたしは、何かの拍子で静寂に気がついた。機械の音はやんでいた。その前に座ったままの彼女の横顔が見えた。ぽつりぽつり、せんべいを割っては口に運び、手ぬぐいで顔をぬぐっていた。その様子が普通ではないように思え、子供のことだから無遠慮に近づいて顔をのぞき込んだ。彼女の顔は汗とも涙とも区別がつかないほどぬれていた。そして、少し照れ笑いの様子で、周囲に落ちているせんべいの割れたのを拾ってよこした。彼女はそのまま、何度も顔を手ぬぐいでぬぐいながら、せんべいを割っては口にはこんでいた。つられてか、わたしの顔も汗か涙かわからないようにぬれ、せんべいまで湿っぽかったように思う。
  ぽんせんべいは、いまでもときどき見かけるが、あの汗と涙を思い出し、見ただけでショッパイ。


27、カジカ(02年8月5日)

  どうもカジカが気になる。とにかく故郷の川、それはわたしにとっては魚野川ということになるのだが、そこで自分でとって食べた魚となるとカジカしかないのだ。
  それは小学生の何年生だったか、たぶん二夏ぐらいのことだ。カジカ突きに熱中し、食べられるぐらいの量を捕った。
  なぜ熱中したかというと、おそらく、ヤスの作り方を覚えたことが関係していると思う。カジカの漁法は詳しく知らないが、わたしが実際に見てやったのは、小ぶりのヤスで突く方法である。その作り方を、年長の知り合いに教えてもらった。
  まず自転車屋で車輪のスポークをもらってくる。その一本一本の先をやすりでとがらせ、ギザギザを入れる。そして真っすぐの一本に、曲げた二本を針金などで固定すると、三つまたのヤスができあがった。微妙に長さなどを変えて数本作った。
  本当は、これでカジカを突くには、川の底をのぞく道具が必要だった。水中メガネは品質が悪いうえに、シュノーケルなどといったしゃれたものはなかった。木で四角い箱を作り、底の部分にガラスを取り付ける。それを流れに入れると、川底がきれいに見えるというわけだ。だがそれは小学生には作れなかった。そこでガラスの大きな破片を使っていた。
  つまり自作のヤスとガラスの破片を持って、魚野川に入る。上流に向かって歩を進めながら、ガラスを流れにあてると、川底がよく見えた。そして川底の石と同じふりをしているカジカを見つけては、素早くヤスで突くのである。面白いように突くことができた。
  きらきら輝く美しい川底、ときどき視界のなかを通りすぎる大きな魚、顔をかすめる水のにおい、カジカを突いたときの感触が懐かしい。しかし、持ち帰ったカジカを母が甘露煮にしてくれたのだが、煮方が下手だったのか、その味は印象にない。


28、アイスキャンデー(02年8月12日)

  棒状のアイスキャンデーは、「昔懐かしのアイスキャンデー」などといわれるようになって、すっかり「古物」扱いである。が、確かに、蒸し暑い街中でそれを見かけると、昔よりはるかに上等なものだが、思い出すことがある。
  アイスキャンデーは戦前からあったようだが、戦後すぐのころに、全国津カ浦々といっていいぐらい大流行する。わたしの故郷の田舎町も例外ではなかった。
  まだ、菓子も満足に食べられなかったころだ。いまから思えば、水にサッカリンか何かで甘みをつけ、何かしらの色を付けて凍らせただけのシロモノなのだろうが、もう、うまくてうまくて子供はもちろん、買い食いなどはもってのほかと躾にうるさかった大人も、これだけは喜んで買って食べた。
  値段は忘れたが、最初のころは高価だったから、毎日毎日親にねだり続けて、やっと何日か目に買ってもらえる状態だった。それで、やっと買ってもらったものだから大事に大事に食べる。もし近所の子が買ってもらえないものなら、わざわざ見せびらかすなどして、とにかく、ゆっくりなめなめするのだ。
  その塊から溶け出すしずくの一滴でも逃さないように、細心の注意を払って食べる。だがそれは暑さの中で加速度的に溶け、棒に凍り付いていた塊は、たちまち水分を含み非常に不安定な状態になるのだった。そこでタイミングを見計らって、最後、一気にかじり付き口に納めて大満足。
  と、うまくいけばよいのだが、時々何かの弾みで、不安定状態のその貴重な塊が、勝手にポロリと棒からはげ落ちるのである。その瞬間の、髪は逆立ち息も止まりそうなパニック。その塊が、土に溶け込んでいく様子を見ながらの絶望。そして「ぎゃあー」と地団駄踏んで泣き叫ぷボクチャンなのだった。




29、冷しみかん(02年8月19日)

  昔の甘味喫茶や大衆食堂のメニューに「冷しみかん」があったのを覚えている人は、どれぐらいいるのだろうか。わたしも忘れていたし、もし東京は亀戸の川崎屋に入らなかったら、そのままだったかもしれない。
  最初にそこでそれを見たのは一九九二年だったと思う。変色した模造紙に手書きの文字も色が抜け、くたびれた様子の「冷しみかん」を発見したときの驚きといったらなかった。しかも、その棚には、もう何十年間もそこにあるといった感じで、明治屋のミカンの缶詰があったのである。
  わたしは夏の砂挨が舞うような幻の向こうに、冷しみかんを食べる自分の姿を見た。
  オレンジ色の粒は、脚の付いた、銀色の金物の器かガラスの器に盛られ、缶詰の真っ赤なサクランボが一個添えられていた。「脚の付いた」というところが、なんともうやうやしい。まるで宝石を食べるような騒ぎである。そしてそれは光り輝き、冷たく甘く、うまかった。
  飲食店では明治屋の物が普通だった。実が崩れることなくそろっている高級品で、粒の一つ一つが、ぷりぷりしていた。
  一九六〇年ごろには、家庭でも冷しみかんを食べるようになった。わたしは高校生で、家でそれを缶からほおばることはあっても、飲食店で食べるのは小さな子供だと思うようになっていた。上京して、メニューにそれを見ても、食べたことはない。そしていつしか忘れていた。
  わたしはそれを捨てなかった川崎屋の大いなる惰性に感謝したが、注文はしなかった。そして、一九九五年だったと思う、写真に収めておいてよかった。その後川崎屋は改築し、ほとんどのメニューは引き継がれたが、冷しみかんは消えた。

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30、笹だんご(02年8月26日)

  お盆休みの終りごろになると、テレビからは土産物を持って帰京する人々の様子が流れる。
  わたしは上京してから数年で故郷の実家がなくなってしまったから、あまりそういう記憶はないが、それでも最初の一、二年は、下宿や親戚や友人に何かを買ってきたような気がする。
  それが何か思い出してみると、笹あめ、はっか糖、柿の種といったところである。ちまきや笹だんごは、本当は自分で食べるためにも持ち帰りたいものだったが、家庭で作る以外なく、いつでもあるというものではなかった。
  時々東京の空の下で、それらを無性に食べたくなったものである。
  ところが、いつの間にか、東京の大きな乗換駅の売店で、ちまきや笹だんごが買えるようになった。新潟県の物産展のコーナーがあったり、全国の土産物をそろえた売店があったりで、そこには、ちまきは必ずというわけではないが、笹だんごはいつでも手にはいる。他のものがなくても笹だんごは、必ずあるのだ。実に頼もしい。
  インターネットで調べたら昭和三十九(一九六四)年の新潟国体で、笹だんごは人気者にのしあがったようだが、冷凍技術のおかげで年中食べられるようになったといえるだろう。
  夏の暑いさなかでも都内のターミナル駅の売店には、冷凍状態から自然解凍の最中といったあんばいで並んでいて、数分見ている間にどんどん売れていく。
  わたしの周囲にも、新潟県人でなくても、時々それを買って食べるというひとがいる。
  うまいのはもちろんだが、あの笹の葉とヨモギの香りが郷愁を誘うらしい。見るからに田舎人のように素朴だとか。たしかに、なかなか得がたい情緒がある。


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