大衆食堂お姿備忘録2

東京・江東区亀戸の<川崎屋>には「冷やしみかん」が残っていた

(1995年の記録。2002年5月4日掲載)

大衆食堂にかぎらず、飲食店のメニューに[冷やしみかん]があったことを記憶しているひとは、どれぐらい「生き残っている」のだろう。缶詰のみかんを貴重品のように小さな器の中心に盛って、銀色のスプーンが添えられて登場するものだったが。

そして、その一粒一粒を大事に食べる可愛いオリコウそうなおれの顔を、微笑みながら見つめる若い美しい母の顔があって、外はジリジリ暑い日差しのなかでセミが鳴き、もしかすると祭りの太鼓の音が……、ってなぐあいに想像がひろがる、遠い記憶。

1990年代前半のはずだ。東京・江東区の亀戸5丁目商店街をふらふら歩いていて、目にとまったヒジョーにいかがわしいたたずまいの川崎屋に入ったとき、それを見て、懐かしさ以上におどろいた。まさか、いまどき、そんなものが飲食店のメニューに残っているとは。しかも、その缶詰まで棚にシカッリ飾ってあるのだ。

おそらく、注文の主が誰もいなくなってから長いあいだそこにあるにちがいなかった。おれは時代の流れを悠々と見送ってきた偉大な惰性に感謝した。

その後、何度か川崎屋へ行っている。『大衆食堂の研究』にも書いた。1995年、その写真を撮るチャンスがあった。撮っておいてよかった、翌96年に川崎屋は建替えになったのだ。そして、多くのメニューはそのままだが、「冷やしみかん」は消えた。



川崎屋の棚

棚のみかんの缶詰は、たしかに昔は家庭ではめったに食べられなかった「明治屋」のものである。



すっかり色あせたメニューには、右から、チョコレートサンデー250円、アイスクリーム200円、冷やしみかん250円、三ツ矢サイダー200円、コカ・コーラ150円、クリームコーラ250円、クリームソーダ250円、クリームミルク250円、と書かれている。



おれは、『大衆食堂の研究』に、こう書いた。

ジャンクな食堂に不可欠ないかがわしいたたずまいであるが、その上、川崎屋にはジャンクらしい一品がある。それは「冷やしみかん」である。

週刊ポスト95年10月20日号で、『大衆食堂の研究』を評した、評論家の山本容朗さんは、こう書いた。

これは大衆食堂の案内書ではない。だが、川崎屋という店ではメニューに「冷やしみかん」あり、を読むと、なんとなくいい気分になってくる。

おれも、ここを読んでニンマリいい気分になった。

川崎屋店内

こういう猥雑な空間も、こういう猥雑な空間でやすらぎを覚えるこころのゆとりも、なくなりつつある。

川崎屋の名物「豆腐いため」は続いている。

大衆食堂お姿備忘録