新潟日報連載21-25 21、越後の漬物(02年6月24日) 「おかうこ、かりかり、お茶漬けさぶさぶ」とは、内田百閧ウんの「御馳走帖」の「沢庵」の書き出しである。いかにもうまそうで、すぐさま漬物でめしを食べたくなる。 辞書によれば「かうこ」とは「こうこ」つまり「香香」のことで「漬物」をさすようだが、内田百閧ウんは「沢庵の事を私の郷里では、かうこと云ふのである」と書いている。 とにかく漬物は食事に付きものだし、スーパーなどでも売り場面積を持っているのに、商品としては地味な存在である。そこで上野はアメ横の食品問屋「冨士屋」の奥山清勝さんに「漬物って面白いですよ」と誘われて、大手漬物問屋が主催する展示会に行った。 奥山さんは五十歳、ある食品メーカーの営業をしているときに新潟県に住んでいた。長男は新潟市、長女は長岡市で生まれた。そんなわけで、いろいろな漬物メーカーが出品している会場で、新潟の商品が気になる。 たまたま足を止めたのが、ヤマキ食品(新潟市)のコーナー。「越後の漬物」という袋が目についた。「越後の米」「越後の酒」「越後の味噌」は聞いたことがあるが「越後の漬物」は聞いたことがないなあと思って「なぜ越後が漬物なのですか」とバカな質問をしてしまった。答えてくれたのは佐藤裕行さん。 新潟県は九州や茨城と並ぶ大根の三大産地の一つ、それに米糠や味噌もあって、漬物業が育った。 漬物は家庭で漬けるもので、糠漬、味噌漬などいろいろあったが、いまや工場製品がなくてはならない。これらは漬け汁に漬けたものが大部分で、それなりにおいしい。 新潟産と大きな表示がある「たくあん漬」を切って食べた。百閧ウんの時代とはだいぶ違うはずだが、「おかうこ、かりかり」とめしがうまく食べられる。 22、豆腐玉子納豆飯(02年7月1日) 一年ほど前に、わたしのホームページ「ザ大衆食」で紹介したら、同じように食べていたとか、初めてやってみたがうまかったなど、話題になったぶっかけめしがある。 これからの蒸し暑く食欲も低下する季節に、うまくてうまくて、もりもり食べられて元気がでるので、特にオススメだ。 困ったことに名前がない。とりあえず、主材料をとって「豆腐玉子納豆飯」とする。 簡単に水切りした豆腐一丁と納豆と生玉子、それにオオバの細切りを大きな器に入れてかき回す。しょうゆで味付け。これで、できあがりだ。後は、めしにかけながら食べるなり、大皿にめしを盛ってかけて小皿に取り合うなり、そのめしを少なめにすればライスサラダとしてビールのつまみに最高である。めしを一緒に混ぜ込んでもいい。 これが基本形で、トウガラシ、ネギ、オクラ、ショウガ、ニンニク、梅干し、シラス、思いつく好みのものを入れる。ニンニクじょうゆや、あるいはナンプラーや香草など使うとエスニック風にもなる。 それぞれ子供のころから、めしと一緒に食べなれているものだが、これを「総合化」する思いつきは、わたしの場合は比較的新しい。豆腐をそのままめしにかけて食べたことがなかったからだ。 五年前ぐらいだったと思う、拙著「ぶっかけめしの悦楽」を書くための資料を調べていて、特に中国地方に豆腐をめしにかけて食べる話が多かった。その簡単で豪快な一つの方法が、どんぶり飯に豆腐を手で握りつぶす要領でかけ、刻みネギを乗せしょうゆをかけて食べるというものだ。やってみたら、うまい。そのあたりで、頭の中で、ポッと火がついたのではないかと思う。とにかく夏に負けない一品だ。 こちらもごらんください 23、ナス汁(02年7月8日) 昔も今も食べている味噌汁で、具にナスが輪切りで入っているだけだが、これほど夏という季節と故郷の思い出が密接なものはない。もちろん、うまい。 家の横の畑で朝、ナスをもいだことを思い出す。ナスの濃い紫色の色つやもさることながら、朝露をためた葉がきれいだった。 十歳を過ぎたころから、早朝リヤカーに野菜をつんで売りに来る、農家のナスを買うようになった。農家のおばさんと母が、静かな冷たい朝の空気のなかで、品物とお金をやりとりしながら、おしゃべりしている。 そして、畑の臭いも露もそのままの感じのナスが、味噌汁の具になった。 その平凡な朝の景色は上京した途端に、ナス汁とともにいったんは遠いものになり、いつしかまた夏には必ず、ナスの味噌汁を食べるようになった。 セミの鳴き声が聞こえる。ナスの味噌汁を食べるとセミの鳴き声が聞こえる。それは、もちろん、あの遠い夏のものである。だが、それだけではない、ナス汁を、めしにかけているのである。つまり、セミの鳴き声のなかで、なす汁ぶっかけめしを、怒涛のごとく食べているのである。 椎名誠さんは「全日本食えばわかる図鑑」の「“味噌汁ぶっかけめし”の遠い夏」で、「味噌汁ぶっかけめしは、このアサリもうまかったけれど、むしろアサリより上ではなかったかな、と思うのがナスの味噌汁であった」と、ウンチクを傾けている。 つまり、なす汁ぶっかけめしは、なす汁のできたてのアツアツのときより、冷えたときのほうがうまい。その思いはわたしも同じである。椎名さんとわたしは、ちがう土地で暮らしながら、たぶん夏休みのころの昼めしだろう、同じめしを食べ同じ思いをもったのだ。そう思うと愉快である。 そして、今また、ナス汁ぶっかけめしをやって、遠い夏を味わう。 24、冷し中華(02年7月15日) 冷やし中華がいつごろからあるか知らないが、わたしの初めての冷やし中華は、はっきりしている。故郷の六日町の「みのや食堂」の冷やし中華だ。しかも、いままで食べたうちで、うまい冷やし中華を挙げろといわれたら、これしか記憶にないぐらいのものである。 最初の一杯がいつだったかは覚えていない。中学生から高校生にかけて、もっともよく食べたことは間違いないし、十歳以前であることはない。 もともと、みのやの中華そばは、うまくて評判だった。普段は外食や出前をとる習慣のなかったわたしの家でも、時々食べていた。で、ある夏に、みのやは冷やし中華を始めて、評判になったのだと思う。大人たちが、そのうわさをしていたのが、記憶の片隅にある。そして、それじゃあ食べてみるかと、出前を取ったのが最初のはずだ。 みのやの主人が、配達用の入れ物から取り出した時から、それはもう、うまそうな姿をしていた。 やや深めの中華の皿に麺を盛り、具にキュウリとチャーシューの細切りはあったように思うし、ほかにも何か乗っていたはずだが、とにかく、その上から、当時としては高価なアイデアだったと思うが、かき氷がかけてあったのだ。 見るからに涼味満点で、食べれば、麺も具も冷えていて、とりわけスープは冷え加減も、氷がとけてやや薄まった感じの味が麺や具にからむと、ひときわよかった。そうだ、確か、酢も効いていた。 わたしにとって、これ以上の冷し中華はない。上京してから有名店のものを食べる機会もあったが、とにかく食べるほどに、みのやの冷し中華を思い出すのだ。 冷やし中華は夏の風物詩として定着する一方で、かき氷は次第に姿を消し、「みのや式」は望んでもかなわないものになった。…と、感慨にふけりながらまた、冷やし中華にかぶりつく。 25、ドジョウ汁(02年7月22日) 狭い日本だが、田舎の生活については、いろいろ誤解があって面白い。例えば、天然のアユやマスを日常的に食べていたと思われる一方で、ドジョウを捕って食べていたと言って驚かれたことがある。その東京育ちの知人は、ドジョウは飲食店で食べるもので、家庭で料理するものではないと思っていたらしい。 わたしも、鍋や空揚げは上京してから飲食店で体験したのであり、故郷では味噌汁しか食べたことがなかった。それも、よくよく考えてみたら、よその家では、どうであったかわからない。 とにかく小さい子供のころは夏になれば、家の前の小川でドジョウすくいをした。ほとんど遊びで、捕ったドジョウの末路は記憶にない。 しかし、ある日、激しかった雷雨がいくらか収まり、だがまだ稲光も雨も残っている時分、父に連れられてドジョウすくいに出た。それは、明らかに捕って食べることが目的で、いつも遊んでいる小川の上流の田んぼの辺に行った。増水で田んぼの水がドウドウ音をたててあふれていた。大きなザルを突っ込むと、面白いようにドジョウがたくさん捕れた。そういうことが、二、三回は記憶にある。 ドジョウ汁は簡単にできた。生きたまま水をはった鍋に入れ、火にかける。熱くなると、いっときドジョウがはねフタにあたる音が騒々しく、すぐ静かになる。その音も何度か聞いた。 そんな話を東京育ちの知人にした。「鍋の水に豆腐を入れておくと、熱くてたまらんドジョウが冷たい豆腐に逃げ込んで、そのまま煮ると、うまいドジョウ豆腐汁になる」と言うと本気にしていた。その話は父に聞いた話で、実際には家でやったことはなかったし、父は冗談の多いひとだったから、本当かどうかは、いまもってわからない。上京してからは、ドジョウ汁を作ったことがない。 新潟日報連載 |