新潟日報連載1-5

(02年1月14日、2月11日は休刊日)

1、望郷もち雑炊(2002年1月7日)

  一九六二年の春、わたしは六日町を出た。そのまま他郷の空の下。すでに実家はなく、また自ら好んだ不良人生もあってか故郷の縁から遠い。
  だけど、ときどき食べたくなって、わけをたどると故郷が見えるものがある。わたしは「望郷食」と恰好つけている。その一つが、もち雑炊だ。正確には「もちぞうせえ」だったかな。
  とくに寒さが厳しくなると、もう無性に食べたくなる。湯気と味噌の香りのなかから、箸に重い粘りのある、米粒をつけたアツアツのもちをひきずりあげ、アグッとかぶりつく。腹にズシンとおさまる満足感とぬくもり。「よーし、食べるぞう」とスーパーへ行く。
  と、ここが、昔とは大分ちがうんだね。
  もちは一年中スーパーで買える。じつはそれでは、あの故郷のもち雑炊の食感には、ほど遠い。わかっているのに、やっぱり、やってしまう。
  いちおう新潟県のメーカーのもちを選ぶ。そして、すぐやわらかくなる製品もちを煮すぎないように、鍋の中をのぞきながら記憶の底に沈んだ故郷の日々を探し出している自分に微苦笑する。
  もう六日町弁も満足に話せないのに、食の縁だけは、こうして生きている。
  たしかみそかごろ本家でもちつきをした。それが七日すぎるとカチンカチンにかたくなる。前夜のごはんも凍みてかたくなっている。それらを朝、つくりたての味噌汁に入れる。「七草かゆ」など記憶になく「七草もち雑炊」だ。もち雑炊の朝は、父も母もわたしも「よしっ」と張り切った。その気合だけは今も同じ。
  寒さのなかで育った力強い食べ物だ。もち入りのうどんが「力うどん」だから、これはぜひ「力雑炊」と呼びたい。

ご参考=雪に埋まる元旦の六日町の写真


2、塩ジャケの皮(2002年1月21日)

  「わたしはいつまでも少年時代の味から抜け出せない。一生塩ジャケの皮がうまいと思いつづけるだろう」と言い放ったのは、新潟県出身の作家、関川夏央さんだ。
  一九八〇年代なかばすぎ、こざかしいグルメ自慢の風潮へ、皮肉たっぷりの批判だった。
  「このところの日本の西洋料理ブームはなんだろう。(略)日本でもアメリカ並みにまずい食事がゆきわたった。その結果の小さなぜいたくが卑小な食い道楽だろう」「パチンコ屋で出る台をひとに教えられる程度の技術を誇る人間は結局なにものにもなれない」
  だからといって「塩ジャケの皮」を持ち出すなんて、新潟県人ならではないか。わたしは、愉快な気分で同郷を意識した。
  それは、「サケ」ではなく「塩ジャケ」以外にありえなかった地方の冬である。その焼いた切り身の身だけでコメのめしを何杯か食べたあとに皮を、食事のそばの七輪やストーブで、もう一度あぶってもう一杯のめしにのせ、やはりそばでちんちん煮立っている湯をかけて、ニンマリする。その大いなる満足感のなかで、来る春への期待や雪国を出る夢をつのらせていた少年時代と無関係ではないだろう。
  喜々と塩ジャケの皮でコメのめしを食べる。そこにかの地で育った人間の歴史と万感がこめられていたように、わたしは思う。いわゆる団塊の世代あたりを境に、そういう事情はしだいに薄れたらしい。そして、サケの皮のうまさだけは残った。
  パリパリに焼いたサケの皮を好むのは新潟県人だけではない。最近は、それが入ったチャーハンをウリにしている料理店もあるぐらいだ。しかし。
  とにかく、塩ジャケの皮は、うまいってこと。


3、冬のアイスクリーム(2002年1月28日)

  母方の祖母が県立六日町病院で亡くなったのは年が明けてまもなくだった。一九六一年だろうか。遺体をソリで運ぶ雪道が一階より上にあった。
  祖母は病院の死の床で、いろいろなものを食べたがったが、なかでも「アイスクリームを食べたい」には大騒ぎになった。
  当時は夏だけのものである。それでも売れ残りがあればと祈るように町内を探したがない。そこで、石打駅にあるのでは、と思いついた。
  上越線の石打駅のホームでは、売り子が声をたて、アイスクリームを売っていた。子供の手のひらにのるマッチ箱のような形と大きさのヘギの容器。雪山の景色を薄い水色で印刷した包装。わたしが四歳のころ食べた一番古い記憶のアイスクリームだ。調べたが冬は販売してなかった。
  けっきょく長岡の駅で、石打駅と同種のものが買えることがわかった。
  しかし、約一時間電車で運ぶうちに溶けはしないかという心配が残った。父は、「なーに新聞紙にくるんで窓の外にぶらさげてればなんとかならあ」と言って出かけた。そして夕方遅く、二個のアイスクリームを持ち帰り一つをわたしに渡すとすぐ、母と病院へむかった。
  わたしは一人ストーブのそばで、小さな容器のふたをとって食べた。アイクリームは形を保っていたがやわらかく、しかし冷たくてうまかった。
  それから数日で死んだ祖母の最後の贈り物ともいえる初めての冬のアイスクリーム。包装はとっておいたのだが、実家は人手にわたり一家転々とするうちになくなった。
  後日、父はよくその話をしては、「おれは、ばあさんに嫌われていたムコで、あのとき初めて礼をいわれた」と気持よさそうに笑ったものである。

<エンテツ注記>上越線は戦後しばらく蒸気機関車が走っていたのだが、長い清水トンネルと前後の急登のループトンネルのため、新潟県側では石打駅で蒸気機関車と電気機関車を交代した。その作業のために石打駅では長い停車があり、「え〜、アイスクリーム」とか叫びながらホームを行ったりきたりする売り子がいた。


4、遠い故郷の酒(2002年2月4日)

  生まれて初めて腰をとられた酒は「どぶろく」だった。小学校五年生か六年生。中学生のとき赤玉ポートワインで酔いつぶれた。高校生になって、やっと新潟県人らしく、酒といえば清酒になった。
  一九六〇年前後。ウイスキーも焼酎も飲まなかった。禁酒の年齢だもの。
  わたしは自己紹介では、「六日町出身」を入れるようにしている。新潟県は日本列島のように南北に流れ東西がある。それに江戸時代には越後は一つではなかった。どこの市町村の出身か問題だ。
  大都会の片隅で故郷を忘却していても、とりわけ酒の話では、そこが焦点になる。
  たとえば、蒲原地方の出身者は断固「越の寒梅」をよしとする。に対して、わたしは、越の寒梅なんぞ東京に来るまで知らなかったという。わたし六日町出身は当然、「八海山」を主張する。すると相手も、東京に来てバブルのころまで、そんな酒は知らなかったという。
  そのような議論を居酒屋でしながら、ちがう安酒を飲んでいる。自宅にはスーパーで買った箱入りの清酒や焼酎ですね。ああ切ない大都会暮らし。近いようで遠い故郷の「高級酒」を話のツマミに安酒をぐいぐい飲む。
  さらに、わたしはこうもいう「田舎にいるころは八海山より金城山だったよ。八海山は町村合併で六日町になったんだ。六日町には金城山という酒があったのさ」。酒の責任ではない、古い因縁を持ち出す。
  なんといっても金城山という山も毎日自宅から見えたのだし登りもしたし、酒蔵の大きな建物は町の中心部にあって、幼いときから見慣れていた。
  同じように近隣の町村にも、それぞれ酒蔵があって、どの町の話になっても、その地の酒が話題になる。それを聞きながら育ったから、みんな飲んだ気分である。
  禁酒の年齢で故郷を出たものにも、酒は故郷性の物語なのだ。じつは、あまり飲んではいないはずなのだが、故郷の酒はうまいと確信している。
  そして、ある日、六日町を訪ねたら、小さいころから見慣れていた金城山の酒蔵は消えていた。


5、故郷をつむぐ酒場(2002年2月18日)

  東京には酒場と酒の種類がありすぎるほどだし、ふだんの酒は飲む場所と飲み方を大事にするひとが少なくないはずだ。
  昨年の暮れ、生れも育ちも職業もちがう三人が、東京都世田谷区祖師谷の小さな酒場、古代楼でコンサートをやった。ボーカルとギターと三味線は、地元生まれのミュージシャンの東秀明さん。横笛とチェロは、アフリカ生まれの営業マン、星菊丸さん。太鼓は、熊本出身の警備員する諸芸術家の田尻多呂之さん。古代楼の常連たちである。
  この定員十数人ぐらいの空間を色と光のアートで満たした、南夏世さんの個展の最終日だった。南さんは大阪生れ。京都の大学を卒業して上京した。その同じ大学の同期生で岡山出身の太田尻智子さんも古代楼の常連で、わたしの本のイラストや装丁をやっていただいた。太鼓の田尻さんとは夫妻。こんな関係が無数におりかさなって、その頂点というか土台というかに、古代楼の主人の有賀真澄さんがいる。有賀さんは長野県諏訪出身。20年前にここで開業した。
  東京は他郷人の街である。それゆえ「酒縁」なるものも育つのだろう。
  地元東京人の東さんは「故郷など考えたことない。だけど」という。「だけど、人間は生きていくうえで心のよりどころが必要だと思う。その意味では、ここなんかそうで、故郷といえるかもしれない。なんていうのかな、ここはあたたかいんだ、そうだな、おふくろみたいだから」
  郷土を離れたり失ったものたちが一軒の酒場で交わり人生をつむぐ。山や川だけでは故郷にならない。人びとがともに物語を織り上げなくては。酒とあたたかい得がたい交流、これこそ故郷。とは、のん兵衛のタワゴトだろうか。


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