新潟日報連載コラムから

望郷もち雑炊(2002年1月7日)

  一九六二年の春、わたしは六日町を出た。そのまま他郷の空の下。すでに実家はなく、また自ら好んだ不良人生もあってか故郷の縁から遠い。
  だけど、ときどき食べたくなって、わけをたどると故郷が見えるものがある。わたしは「望郷食」と恰好つけている。その一つが、もち雑炊だ。正確には「もちぞうせえ」だったかな。
  とくに寒さが厳しくなると、もう無性に食べたくなる。湯気と味噌の香りのなかから、箸に重い粘りのある、米粒をつけたアツアツのもちをひきずりあげ、アグッとかぶりつく。腹にズシンとおさまる満足感とぬくもり。「よーし、食べるぞう」とスーパーへ行く。
  と、ここが、昔とは大分ちがうんだね。
  もちは一年中スーパーで買える。じつはそれでは、あの故郷のもち雑炊の食感には、ほど遠い。わかっているのに、やっぱり、やってしまう。
  いちおう新潟県のメーカーのもちを選ぶ。そして、すぐやわらかくなる製品もちを煮すぎないように、鍋の中をのぞきながら記憶の底に沈んだ故郷の日々を探し出している自分に微苦笑する。
  もう六日町弁も満足に話せないのに、食の縁だけは、こうして生きている。たしかみそかごろ本家でもちつきをした。それが七日すぎるとカチンカチンにかたくなる。前夜のごはんも凍みてかたくなっている。それらを朝、つくりたての味噌汁に入れる。「七草かゆ」など記憶になく「七草もち雑炊」だ。もち雑炊の朝は、父も母もわたしも「よしっ」と張り切った。その気合だけは今も同じ。
  寒さのなかで育った力強い食べ物だ。もち入りのうどんが「力うどん」だから、これはぜひ「力雑炊」と呼びたい。


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