毎日新聞上野地下食堂記事

毎日新聞 2002年11月16日夕刊


社会面トップ、おれのコメントつき

(見出し)
消える憩いの地下のれん
東北なまり 郷里のにおい………上野駅で半世紀
食堂3軒今月限り 昭和の面影、また一つ………

写真2点。おかめの暖簾に、おかめの女主人。それぞれ次のキャプションがついて。上「食堂が並ぶかいわいは、そこだけタイム・スリップしたようだ」。下「おかめの女主人、小崎登喜さんと50年余を共にした招き猫。お客の一人が猫を引き取ることになっている」

(本文)
 戦後半世紀以上続いてきたJR上野駅地下の大衆食堂3軒が、今月末までに店をたたむ。いずれもこぢんまりした個人経営で、東北地方の出身者やサラリーマンの憩いの場だったが、駅の改築に伴い撤退せざるを得なくなった。終戦直後には、数十軒の飲食店や理容店がのれんを連ねていた駅地下。当時の面影を残す店は消え、近くの地下鉄駅周辺や駅上は新しい店ばかり。郷愁あふれる上野の姿がまた一つなくなる。

 閉店するのは「おかめ」「柳家」「グラミ」。定食や丼物のほか、おでんや煮込みなど酒のつまみもそろい、朝からビールを傾ける人もいる。
 「開店当時は、東北から夜行で来た人のため朝5時半に店を開けた。お米やソバも配給が足りずヤミ市で調達しました」。戦地帰りの夫とグラミを始めた金子洋子さん(81)は語る。義理堅い東北人が次々と知人を連れてくるため、店にはいつも東北なまりが飛びかっていた。
 食堂は今、50代の娘と30代の孫が切り盛りする。焼酎を飲んでいた山形県出身の男性(73)=東京都杉並区=は「郷里のにおいが懐かしくて、今でも月2回は上野に足を向けてしまう。ほっとできる所なのにさみしい」とこぼした。
 年季の入った紺色ののれんがかかる柳家の2代目、川畑裕さん(44)は「父が店を始めたころは、朝一番にシャッターを開けると客が行列つくっていて、終電まで人が絶えなかった」と懐かしむ。両親は店内で寝泊まりするほどの忙しさだったという。
 おかめには、開店当初から通う老夫婦もいれば、ラーメン食べに来るインドネシア人労働者のおなじみさんもいる。2年前に亡くなった夫と店を続けてきた小崎登喜さん(73)は、「あか抜けない店だけどお客さんは落ちつくみたい」という。月3回、20年以上通っている自営業の男性(56)は「座っただけでいつものレバ焼きが出てくるし、流れている懐メロがいい。これからどこで飲めばいいのか」と嘆息した。
 3軒は18〜27日までに相次いで閉店する。「大衆食の会」代表でフリーライターの遠藤哲夫さん(59)=さいたま市=は「個人経営の食堂は都内で激減している。上野駅には家族労働ならではの温かいサービスがあった。最近の駅は横並びのテナントが目立つが、公共の場所だからこそ、古い食堂を残す努力をしてほしかった」と話している。(山本紀子、写真も)


上野駅地下食堂街の消滅