ザ大衆食トップブログ版日記

 本稿は、2004年、当時の財団法人塩事業センターが発行する「Webマガジン en」1月号の「食を探る」に掲載されたものです。

そのサイトにリンクを貼っていたのですが、サイトが廃止されたので、ここに転載します。レイアウトは、ほぼ当時のままです。

なお、『大衆食堂パラダイス!』(ちくま文庫、2011年)にも収録されています。

(2015年10月25日)


http://www.shiojigyo.com/en/backnumber/0401/pict/t_column2.gif

<特集  おいしいとは・うまいとは>

 

遠藤哲夫氏写真





大衆食と「普通にうまい」

遠藤哲夫
えんどう・てつお − 1943年新潟県六日町生まれ。フリーライター、大衆食の会代表。法政大学を3年間で中退後、そこそこやってはやめ別のことをやる中退人生。「プランナー」という肩書が71年からで一番長い。そのプランナー稼業で一番多かったのが食品のマーケティング分野。メーカーの商品・市場開発や宣伝広告販促、スーパーやコンビニのマーチャンダイジング、飲食店の出店プランなど多数。著書『大衆食堂の研究』(三一書房、1995年)『ぶっかけめしの悦楽』(四谷ラウンド、1999年)は、いずれも出版社の経営紛争や倒産で絶版。

 私は専門家とか研究者というものではない。一介のフリー、何でも屋ライターであり、「大衆食の会代表」という肩書は、大衆食堂で飲んで騒ぐ会を招集するだけの代表である。それも近頃は召集をサボリがちで、発行していたワープロ印刷ミニコミ「ザ大衆食」もWeb(http://homepage2.nifty.com/entetsu/)にして、手抜きの楽をしている。
 というわけで、体験的な、あるいは偏った主観的な、「なにがなんでも大衆食だ!」的主張をしてみたい。


普通にうまい

 大衆食の会に参加の、数年前に大学院生をやっていたひとがいる。在学中に、産業社会学的にだったと思うが、大衆食堂も研究の対象にした論文を書いた。そこに当然「大衆食堂」という言葉をつかった。すると指導の教員が、「大衆」という言葉を正しくつかうために近代100年の歴史を勉強するようにとか、言ったそうである。

 学術業界というのは大変なところだなぁと笑ったが、「大衆」なる言葉がつくだけで、「貧乏種」「愚民種」にみられ嫌われたりすることもある。しかし、大衆食堂でめしくう人たちは「おれたち大衆だよ、文句あるか」ってなものだ。そして、「大衆食堂ってのはね、普通にうまければいいのだよ、特別にうまい必要はないのさ」と言ったりしている。

 私は、「普通にうまい」と「特別にうまい」を分けるセンスに「なるほど」と感心したのだが、ある大衆食堂のオヤジも、同じようなことを言った。「うちにはうまいものなんかないよ、うちの家族が食べているのとおなじ普通のものを出しているだけだよ、うまいものが食べたければよそへ行ってよ」などと。取材を申し込むと、「いやあ、うちは普通のものしか作ってないからねえ」という答えが返る例は少なからずある。

 この「普通」って言葉は、「スタンダード」とも置き換えられそうだし、大衆食堂や大衆食を語るとき、とても便利のように思う。

 そもそも私が大衆食堂に、めしをくう以上の関心を持ったのは、その普通の料理、普通のメニューである。

 1980年代後半だった。私はバブルな飲食店でカッコウつけながら、それまでの習性で、古い木造のボロなたたずまいの大衆食堂も利用していた。一方は激しい勢いでイケイケの派手な変化。当時の気どったレストランのメニューといったら、「アルプスの少女ハイジ」なんていう名前の料理が、ただのチーズと育ちの悪い芝草のようなものが混ざったサラダだったりなどと、スゴイお笑いをマジにやっていた。

 しかし一方、大衆食堂はというと、バブルなどよその国の話みたいと、私が上京した1960年代と、ほとんど変わらない地味な有様。そこで、サバ味噌煮などを突っつきながら頭の片隅で、大衆食堂のメニューを集めると、もしかすると近代日本食のスタンダード、つまり近代日本食の普通がわかるかも知れないなあ、と思ったことがあった。

 それから数年たって、ひょんなことから大衆食堂の本を書くことになった。

写真

壮観ともいえる大衆食堂のメニュー書きには、近代日本食の歴史がつまっている。普通のうまさで賑わっている川崎市中原区新丸子の「さんちゃん食堂」


『大衆食堂の研究』の本音

 自慢じゃないが、拙著『大衆食堂の研究』は、怒って本を送り返した人がいたぐらいである。どうやらマットウな研究ではないらしい。それはともかく、なかで食堂メニュー一覧をやっている。そこで私は、自分が入って写しとっておいた大衆食堂のメニューを、その文字のままにズラズラ並べた。本当は、それが、やりたかったのだ。

 食べ物の本はたくさんあって、いろいろな知識が得られる。しかし、イザ身近なところで、自分の親の代は何をどう食べていたのか、本を読んでも考えてみても、わからないことがたくさんある。祖父母の代にいたっては霧のなかの景色を見るようなものだ。そして、あらたまって考えてみると、自分のまわりでは何をどう食べているのか、よくわからないし、わかってみると驚くことがたくさんあったりする。

 どうもおかしい。たとえば、サバ味噌煮やとん汁や野菜炒めやマカロニサラダの歴史などは、話題にもならない。おそらく、この4品の歴史の重要性すら認識している人は少ないだろう。わが味噌汁の歴史ですら、かなりアイマイなものである。

 カレーライスのような天下の大衆食も、本になると、戦前から大衆食堂の定番だった、ジャガイモごろごろの黄色いカレーライスは突然姿を消し、イギリスやインド、はたまた大日本帝国海軍や陸軍の料理になり、わがデクノボウの親や祖父母に類する普通のひとは登場することなく、「シュフ」「料理人」「食通」といった人たちが偉そうにしているではないか。そして、その偉そうな高額のカレーライスは、自分が食べてきた普通のカレーライスとまったく違うものである。どんどん自分の生活の実態や実感から離れていくのだ。

 なぜ、こういうことになってしまったのか? という疑問もあったが、とにかく大衆食堂のメニューをかき集めてみると、これは実際に普通の家庭で作られていたかどうかわからない文献資料のメニューや、そういうものを年代順に整理し勝手なリクツを付加しただけの食べ物の歴史より役に立つことがあるだろうと思った。そして、やってみた。

 大衆食堂のメニューは実際に普通に食べられていたものである。全ての家庭料理の反映ではないが、むしろ全国的にも地域的にも季節的にも、もっとも普通の料理であり、つまり時代のスタンダードを鳥瞰するにはよい。しかも「アルプスの少女ハイジ」のように、名前を見ただけでは何をどう食べるものか見当がつかないようなことはないのである。


大正期の公衆食堂のメニュー

 本当は、「普通にうまい」について書くつもりなのだが、話がどんどんズレている。許されよ。大衆食堂のメニューを調べていて、一番おどろいたのは、1925年(大正14)の「東京市公衆食堂」のメニューだ。ここにパン、ミルク、コーヒーがあるのだ。

 定食 朝10銭、昼15銭、夕15
 うどん 種物15銭、普通10
 パン ジャムバター付半斤8
 ミルク 牛乳一合7銭
 コーヒー 5

 ことわっておくが、戦前の用語は官庁の文書でもテキトウだね。あるときは「公衆食堂」あるときは「公益食堂」あるときは「市営食堂」そしてまたあるときは……大衆食堂のように、おおらかだ。東京や大阪に市立の「公益食堂」ができるのは、大正7年(1918)からである。その「設立の動機は第一次世界大戦直後の変態的物価騰貴であり」「米騒動を直接の動機として国家的背景のもとに全国都市に続々発生した」

 東京では大正12年(1923)の関東大震災でますます必要性が高まり、昭和7年(1932)の深川食堂まで16ヵ所、座席数にして合計1877名分できた。この間に、民間の食堂が増える。「中産以下の労働者階級」「小額所得階級」に「低廉且栄養に富む食物を供給する」目的の公衆食堂は、昭和10年頃を境に「低廉なる民間食堂が多く市営食堂の目的の一端はすでに達せられたる為」転機を迎え、昭和13年(1938)には民間の東京府料理飲食業組合大衆食堂部ができるにいたる。しかし、戦争による食糧事情の悪化で、自由な大衆食堂の成長は戦後になる。

 この流れのなかで、今日の「大衆食堂」の呼称とスタイルが確立したとみることができるのだが、その最初の大正のころから、定食、麺類に混じって、パン、ミルク、コーヒーが、日本食の普通に登場していたという事実である。

 これは、戦後のダイニングキッチン団地族から始まる中流意識家庭の、まさにスタンダードではないか。アンタ、パンにコーヒーぐらいで中流意識もいいけど、その食事は、大正時代の小額所得労働者だってできたものだよ、ってことでなかなか面白い。1960年代の大衆食堂には普及したばかりのインスタントコーヒーの容器が誇らしげに置いてあって、私もやっていたのだが、米のめしを食べ、緑茶ではなくコーヒーを飲む風習は、なかなか根が深い近代日本食の普通なのである。

写真

島崎藤村が『千曲川のスケッチ』の「一ぜんめし」に書いた「一ぜんめし御休処 揚羽屋」は健在だ。「そこは下層の労働者、馬方、近在の小百姓なぞが、酒を温めて貰うところだ」とある。藤村が明治37年から7年間長野県小諸で過ごしたころの、つまり大正期以前の土着的な一膳飯屋を偲ぶことができるメニューや味覚が、現在の大衆食堂的なそれに混じってかすかに残っている。


近代日本食の大きな流れ

 大きな流れを単純に整理すると、江戸期の普通だった縄のれんや煮売り屋や一膳飯屋の時代から、昭和の大衆食堂への過程は、「白めし」定食が近代日本食の普通になる歴史でもある。しかし白めしだけで、近代日本食の普通が成立したわけではなかった。

 白めしが普通といえるようになるのは、ほぼ大正期後半からで、安定するのは戦後である。大正期から昭和初期の食堂の暖簾には、白抜き文字の「食堂」と「白めし」がならんであるほど、「白めし」はウリだった。それは戦前の米は、投機の対象であったことが関係しているだろう。そういう状況の大衆食堂で、白めし定食にコナモノの麺類とパン、コーヒーとミルクの食事が始まった。これは近代日本食の普通の象徴的な構造だろうと思う。

 庶民の生活の上辺はともかく、実質のところでは、100年単位ぐらいで見ないとわからない、意外にゆっくりした変化である。ま、いつも庶民にお恵みがまわってくるのは最後なのであって、あてがい扶持なのだから、当然といえば当然なのだ。それは、まずくて懐かしいといわれる給食の長い間の顔だったコッペパンと、そのパンが米のめしになっても牛乳がつくという、給食スタンダードを見れば納得できる。

 江戸期の外食店の普通メニューと、戦後の大衆食堂のメニュー、最近元気のいい大戸屋などの大衆食堂チェーン店のメニューなどのあいだに、この大正期の公衆食堂のメニューを置いてみると、じつにシンプルに近代日本食の普通の歴史が見えてくるように思う。

 「洋食か和食か」などと騒ぐ必要はない、「米ばなれ」を嘆くことはない。栄養と洋風化と文明開化と近代文明を束にして賞賛したり悪者にしたりする議論は、カネになるかもしれないが、もういいかげんにやめたらどうかと思う。あまりにも狭量、短視眼である。あるのは単に江戸中後期に始まる日本食の近代化であり、近代日本食のスタンダードの歴史である。その大筋は、短期の流行や曲折はあっても、ちゃんとしているのだ。


拡散する大衆食空間

 いま、東京・渋谷区笹塚の大正期から続く常盤食堂に入ると、1965年頃改築したときに店内の壁面につけた行灯メニューが、そのまま残っている。その最初の一行目はガムテープが貼ってある。透けて見える下の文字は「ビーフステーキ」だ。

 戦後の大衆食堂、つまり米飯の販売が自由になってからの昭和30年代であるが、そこには、ミルクやパンやコーヒーはおろか、ビフテキ、ポークソティー、トンカツ、スパゲティなどがあった。もちろん、さば味噌煮や納豆やとん汁や刺身や野菜炒めもあった。牛丼も天丼もラーメンも大衆食堂で食べるものだった。

 そのころ大衆食堂にあって消えていったメニューの多くは、普通の飲食から消えたのではない。大衆食堂のメニューやサービスを、それぞれ洗練させながら専門の業態が成長したので、そういうものを大衆食堂で利用する人がいなくなっただけなのだ。

 というわけで、いま、なぜか大衆食堂のイメージというと昔ながらの「和」になってしまう。「和」とはいえ、戦前に普及した「洋」は含まれている。そして今日の大衆食堂チェーン店の時代になると、戦後に普通した「洋」も含まれる。しかし「和」のイメージだし、実際に肉料理はあるがバターをコッテリつかった料理はほとんどない。つまりそれが、近代日本食の普通の姿である。「洋」は「和」にのみこまれ、近代日本食の普通ができている。

 そして大都市の圧倒的な食空間は、大衆食堂からバラバラに拡散しながら成長した業態の飲食店が占めているのだ。すごいですねえ。ようするに大衆食堂は戦後の飲食店の原点であり、かつ、大衆食つまり近代日本食の普通の集散点なのである。

 都会の広大な大衆食空間の中央でちょっとだけ流行り、華々しく騒がれた「洋」のファミリーレストランやファーストフード店だが、わずか30年で苦境に陥り、丼物や麺類に手を出したり、牛丼チェーン店は定食もやったりと、けっきょく大衆食堂の大衆食メニューをこえられない。逆に大衆食堂は、新しい大衆食のハンバーグを、和風ハンバーグから豆腐ハンバーグなるものまでこしらえて、のみこんでいる。

 不死身の大衆食アメーバー、どうだまいったか!私は、気分よく眺めている。伝統の日本料理や懐石料理は滅んでも、外国料理が進出してこようと、近代日本食の王道を歩む大衆食の伝統は永遠である。

写真

1965年ごろのままの常盤食堂の行灯メニュー。最初のガムテープの下は「ビーフステーキ」


大衆食の多様性と柔軟性

 ミスタージャイアンツ長嶋さんの巨人軍安心論のような話になったが。ついでに、さらなる安心を。新しい食品でも料理でも、なんでもホイホイ受け入れてしまう現代日本人を「堕落した」などと大げさなことをいう人がいる。そんなことはない、健全である。

 いま述べてきた大きな流れは、大衆食堂のメニューをかき集め、全国的普通を眺めてのことである。大衆食の重要な側面は、地域性季節性である。そして大衆食堂のメニューは、それを反映し、全国的普通と地域的季節的普通で成り立っているのが普通だ。

 たとえば、東京の大衆食堂でも下町と山の手、つまり東京駅を中心にすると東と西では、まだけっこう違いがある。刺身の充実ぐあいや、味噌汁の味など特徴がある。地方の大衆食堂へ行けば、そういう違いはもっとある。じつに楽しい。

 健全であるというのは、そのように、統合性と多様性と柔軟性が維持されているからである。 「安い、うまい、早い」これはかつて大衆食堂の看板によく見られた標語だが、大衆食の変わらぬ伝統、王道である。「早い」は「簡単」でもあるが、この条件にあうものはヨシ、あわなければダメ。そこでふるいにかけられ、「普通にうまい」が成長した。これからもそのように継続するものは継続し、変わるものは変わっていくだろう。これでいいのである。

 普通にうまいは、日々働き生きる生活が成り立つためのことであり、健康も含まれるが、「安い、うまい、早い」にしたがった日々の充実こそ大切なのである。私は、それを「快食」と理解している。大衆食に必要な「普通にうまい」は「美食」でも「粗食」でもなく「快食」なのである。美食か粗食かなんて言っていては、近代日本食は見えない。

 と、やっと「普通にうまい」の話にたどりついたところで、ちょうどの原稿量となりました。おあとは、チマタの大衆食を、あるいは大衆食堂を、お楽しみください。

 最後に、大衆食を支えてきた貧乏人が「普通にうまければいい」というのは謙遜である。じつは貧乏人は大変な食通なのだ。茶人・料理人として有名な魚谷常吉さんは、かつて「貧乏人の食通」についてこう述べている。「現今高等料理に使われるものは、ほとんど全部これらの人々の発見、工夫したものであるといってよい」(『味覚法楽』平野雅章編、中公文庫)。大衆食なくして高級料理もない。大衆食は正しい。