誤解された「料理評論」

(2001年5月某日記)

とりわけ山本益博さんが「料理評論家」を名のって以来、料理は「味覚」のことにゆがんだ。その業績を否定するつもりはないが、かれは「料理評論家」を名のりながら、じつは「食味評論家」をやっていた。

かくて、店を食べ歩き、店や料理を味覚で採点しランク付けすることが、あたかも料理を知ることであるかのような風潮が広がり、それが「B級グルメ」といわれる分野にまで拡大している。それも「味」と「味覚」のあいだを考えることもせずに、何軒食い倒したと自慢し、「本物」を知る「舌」の持ち主であるがごとき言動で、バカな大衆をたぶらかすのである。

つまり彼らは、何軒か食い倒した「舌」は持っているが、料理を理解しようというのではない。たくさんの音楽を聴き、微細な音のききわけができると耳自慢する「音楽評論家」みたいなものである。

だから、おれのようなバカな大衆は、バカはバカなりに開き直らなければならない、バカのどこが悪いと開き直るように。「おれにとってうまいものが唯一うまいだけだ、それでどこが悪い」と。ケェッ。


メシゴト雑記事項索引