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エンテツ本…『大衆めし 激動の戦後史』…もくじと「まえがき」「あとがき」の一部

2013年10月7日にちくま新書から発売になった新刊、
『大衆めし 激動の戦後史:「いいモノ」食ってりゃ幸せか?』の、
「もくじ」と、「まえがき 「いいモノ」食ってりゃ幸せか?」と「あとがき 大衆食堂のめしはなぜうまいか」の書き出し部分です。
(2013年10月4日、2014年7月31日更新)




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本書の概要

本書は、「まえがき」や「あとがき」でも述べているが、「生活料理入門」として書かれた。

「まえがき」より。

 おそらく「生活料理」という言葉も耳慣れないことだろう。これは、戦後の高度経済成長が終わる一九七〇年代中ごろに、伝統的な「日本料理」と「食通ブーム」のちの「グルメブーム」に対抗するように、おれの周辺で造語された。「大衆めし」と「生活料理」は、イコールでもあり、相互に包括し合う関係ともいえる。
 その言葉を生んだ生活と料理をめぐる激動は、ますます激しくなりながら、いまでも続いている。しかし、商品や飲食店を紹介する情報や知識は過剰なぐらいあふれているが、それを選択するわれわれ自身の生活や料理に関する知識は、まことにこころもとない。
 というわけで、この本は、おれが体験した大衆めしの激動のアレコレをふりかえりながら、いまを生きるめしにもっと深く分け入るための、ごく私的な「生活料理入門」になっている。

構成は大きく三つに分かれている。

まず、第1章から第5章までが、「生活料理」という言葉が、「一九七〇年代中ごろに、伝統的な「日本料理」と「食通ブーム」のちの「グルメブーム」に対抗するように、おれの周辺で造語された時代の話し。

2番目は、第6章で、近代日本料理の「野菜炒め」を例に、生活料理について考察を深めている。

3番目は、第7章で、生活料理をめぐる今日的課題の重要ないくつかについて。

「もくじ」は、こんなぐあい。

まえがき 「いいモノ」食ってりゃ幸せか?

第1章 激動の七〇年代初頭、愛しの魚肉ソーセージは

 縄文以来の料理の激動/おれの激動/魚肉ソーセージの工場へ行った/怒濤の魚肉ソーセージに驚愕/おれの田舎の魚肉ソーセージ/浮世に翻弄される魚肉ソーセージの激動/「クックレス」の始まり、日本料理の衰退か

第2章 クックレスの激動

 クックレス食品と三つの食品テクノロジー/実用品も嗜好品もインスタントにした食品テクノロジー/米の激動、レトルトごはん開発に突進/米製品の泥縄式開発にくたびれ果てた/主食といいながら米のことは知らなかった/冷凍食品が大衆食堂のおかずになった/「食生活の体系的改善」がもたらした決定的変化/できの悪い冷凍エビフライと料理と台所の激変/「余暇」へ向かう資本と大衆/外食が消費者に認知された/断絶の、レジャーとファッションの外食文化

第3章 米とパン、ワインとチーズの激動

 食料自給率低下と米/米かパンかの混沌/「米食低脳論」/めしを考える根っこが間違っている/大めし食いだったおれの楽観/近代の食事の一つのスタンダード/和製洋風の時代/ワインとチーズ、すすむ食のファッション化

第4章 激動のなか「日本料理」はどうだったのか

 悩ましい甘鯛のかぶら蒸し/やりくり生活の中流意識/甘鯛のかぶら蒸しは遠かった/日本料理ショック/江原恵と会った/江原恵と意気投合した/「日本料理は敗北した」に驚いた/料亭とは、なんぞや/日本料理とは、なんぞや/懐石料理と日本料理の本流/日本料理の変革期/ふしぎな世間の常識/伝統は頑迷だからこそ伝統なのか/庖丁文化とは、なんぞや/たとえば、「料理の鉄人」/旬と四季と料理/日本料理から生活料理へ

第5章 さらに日本料理、食文化本とグルメと生活

 食文化とは、なんぞや/話題になった石毛直道「錦市場探訪」/日本料理の「パラドクシカルな体系」/日本料理と大衆の食生活の二重構造の痛さ/せっかちで貧困な食文化/『料理の四面体』ショック/料理の本質に迫った料理の四面体/グルメにいいたいことはあるが/生活料理とは、なんぞや

第6章 生活料理と「野菜炒め」考

 自らの生活料理を鍛えるのだ/初めての野菜炒め/キャベツ炒めをやってみる/料理は好き好きのもの/料理とは「なにを、どう食べるか」の食べ方の技術/戦後の田舎の台所の火/油味噌とヤキメシ/薪と炭の現実、炒め煮/台所の火の現実と料理/NHK『これだけは知っておきたい料理』/油の普及ときんぴら/クソマジメなきんぴらと野菜炒め/帝国がなくなる未来を夢見て/栄久庵憲司『台所道具の歴史』/『日本の食生活全集』/アイマイな火と伝統の幻想/国際関係の野菜炒め/アイマイさと雑多性の野菜炒め/現代日本料理らしさ/「季節の味」の本末転倒/「おふくろの味」と「自分の美味」/生きている証の「自分の美味」を大切に/カレーライスと同じ野菜炒めの可能性/最後、または野菜炒めのまとめ

第7章 激動する世界と生活料理の位置

 「食の豊かさ」について考える/食育基本法はあるのだが/家事労働と料理と女と男/もっと魚を食べなくてはいけないのか/食料自給率「四〇パーセント」は危機か/飢餓と料理

あとがき 大衆食堂のめしはなぜうまいか


「まえがき 「いいモノ」食ってりゃ幸せか?」の書き出しは、こんなぐあい。

 「大衆食堂のめしはなぜうまいか」
 そこには、生活料理があるからだし、おれが、キャッチフレーズのように使ってきた、「気取るな、力強くめしを食え!」と「ありふれたものをおいしく食べる」の文化が息づいているからだ。
 大衆食堂のめしは、大衆の食生活の反映であるし、大衆の食生活においては、「めし」が文化的な中心であった。めしをうまく食べるためのさまざまな取り組みが行われてきた。その事実について、いささか世間の評価は低すぎはしないかと、おれは思っている。
 おそらく「生活料理」という言葉も耳慣れないことだろう。これは、戦後の高度経済成長が終わる一九七〇年代中ごろに、伝統的な「日本料理」と「食通ブーム」のちの「グルメブーム」に対抗するように、おれの周辺で造語された。「大衆めし」と「生活料理」は、イコールでもあり、相互に包括し合う関係ともいえる。
 その言葉を生んだ生活と料理をめぐる激動は、ますます激しくなりながら、いまでも続いている。しかし、商品や飲食店を紹介する情報や知識は過剰なぐらいあふれているが、それを選択するわれわれ自身の生活や料理に関する知識は、まことにこころもとない。
 というわけで、この本は、おれが体験した大衆めしの激動のアレコレをふりかえりながら、いまを生きるめしにもっと深く分け入るための、ごく私的な「生活料理入門」になっている。

「あとがき 大衆食堂のめしはなぜうまいか」の書き出しは、こんなぐあい。

 おれは最近出した本を聞かれると、「瀬尾幸子さんと共著の『みんなの大衆めし』と、『大衆食堂パラダイス!』です」と答えてきた。実際に、直近は、この二冊なのだ。
 すると相手は、かなりの確率で、「定食ですね」とか「B級グルメですね」とか「おふくろの味ですね」という。
 おれは、「うーん、そんなもんです」と答える。
 「いや、生活料理です」と正直に反応しようものなら、かなりの確率で引かれるか、少ない確率で生活料理ってなんですかと食いつかれて説明が大変なことになるから、テキトウにお茶を濁してきた。
 本書では、その生活料理について、ほんの入口だけど、書くことができたと思っている。