新潟日報連載16-20 16、ジュースの素(02年5月20日) 夏ガクレバオモイダス、雪渓の上で残雪を器に盛り、ジュースの素をかけて食べたこと。 そのジュースの素とは、知るひとぞ知る「渡辺のジュースの素」である。 わたしが中学、高校のころは、工業化が急速に進んで、新しい加工食品が次々と登場した。いわゆるインスタント食品の時代が到来したのだ。 わたしは、こういうものが故郷の思い出につながる、戦後最初の世代だと思う。 中でも大人気で、のち姿を消した思い出深いものが、「渡辺のジュースの素」である。粉末を水で溶けばジュースになるというもので、コマーシャルソングとともに流行した。 当時は果汁何%かを気にするようなこともなく、果汁含有のほどは記憶にない。とにかく、コップ一杯分が小袋に入ったほかに、多量のお徳用の袋入りがあったように思う。 いま考えると、駄菓子のようなものだが、食料品店で売られる正しい食品だった。 缶詰のジュースが出回りだしたころで、それは高価でなかなか手が出せないところへ、渡辺のジュースの素は登場したのである。 これが、ジットリした暑い日など特に、井戸水や清水に溶いて飲むと、じつにうまく爽快な気分になれた。 初夏の陽気の日だった。わたしが所属していた六日町高校山岳部の山行があって、たぶん谷川岳ザンゲ沢だったと思うが、その雪渓で休憩のときに、ひとりが器に雪を盛ってジュースの素をかけて食べはじめた。うまいというので、全員でやって、よろこんだ。今日的には、シャーベットのようなものか。 それから残雪期の登山では、これが楽しみになり、巻機山でもやった記憶がある。 高校時代の一瞬の味覚だが、夏ガクレバオモイダス。 17、水かけめし(02年5月27日) 拙著『ぶっかけめしの悦楽』の読者からいただいたはがきに、「冷や飯に塩をふり冷い井戸水(水道水は不可)をかける」のが好きだとあって、悦に入った。 うらやましいことに、この方はいまでも井戸水でやっているのだ。この、正式にはなんと呼ぶのか、平安期のころには「水飯」あるいは「水漬」とか呼ばれていたようだが、とにかく夏には水をめしにかけて食べるのが、ことのほかうまかったが、それは井戸水があったからだろう。 さらにゼイタクをいえば、蒸し暑い朝、北側の台所の板の間のひんやりした感触の上であぐらをかき、キュウリのぬか漬けやたくあんなどの薄く切ったのをめしの上にのせ、井戸水をかけサラサラ食べる気分は、大満足であった。 梅干でもよし。味噌漬を薄く切ったのでも、焼き味噌や油味噌もよかったなあ。うーむ、次々に思い出され、よだれが出てくる。 わたしの場合は、その「北側の台所の板の間のひんやりした感触」は、十歳のころに生家が人手にわたって失われたが、引越しても井戸水はあったから、十分楽しめた。 高校生の食べ盛りのころには、朝からこれを腹にギッシリ詰め込むと、大いにやる気が出たものである。登山の時には、飯ごうのめしを器に盛って塩をふり沢の水をかけて食べると、そのうまさは格別だった。 実は、いまでもやっている。水道水は問題にならないが、ペットボトルの水がある。これは、すこし水の口あたりが硬いうえに、米の違いも関係するのだろうか、かつての井戸水のような軟らかい旨味が得られない。 しかしそこは、シラスやキムチや明太子といった、新しいトッピングでごまかしたりしながらサラサラ食べる。 これで幸せな気分になって力も出るって、やはり新潟県人だからだろうか。 18、水(02年6月3日) 半世紀前には、ペットボトルの飲料水を買って飲むようになる事態は、想像できなかった。 ま、田んぼのドジョウなども永遠と思っていたし、自分がドジョウとりをやらなくなると、田んぼにドジョウがいようがいまいが気にならなくなったのだが。 しかし、当然ながら、水は、毎日使っていたものである。夏には、台所の井戸水で、スイカやマクワウリやキュウリやトマトを冷やして食べるのが、ごく普通だった。 井戸水は、わたしの生家では、最初は台所の土間の一隅につくられた、コンクリートの長方形の升の中を勢いよく流れていた。家の中に湧き水から流れ出した渓流のたまりがあって、そのそばで生活しているようなものだった。 そのあと手押しのポンプがついた。立ったまま台所仕事をする構造になったからで、水を汲み上げる必要が生じたのだ。だから一方で流れる井戸水も使えた。 町の水道が、いつできたのか記憶にない。が、いつしか井戸水は不衛生で後進的で田舎っぽく、水道が衛生的で進歩的で都会的であるかのような風潮が漂っていた。 引っ越して気づいたら水道が家に入っていたが、その水は地下水を利用していたし、自家水道もあって井戸水も利用できたから、とくに夏には、その冷たい恩恵に浴すことができた。 ここまでが、わたしの故郷での水である。ペットボトル入りの飲料水を買うなんて、誰が想像できただろうか。 しかし、上京した途端、水不足で水に不自由したうえ、安全だからそのまま飲めるといわれても飲む気のしない水道水になった。 「うさぎ追いし、かの山、小鮒釣りし、かの川」豊かな山と川に恵まれて故郷は成り立ってきた。故郷とは、突き詰めれば、「水」ということになるだろう。 19、カツカレー(02年6月10日) 暑くなると「横丁」という大衆食堂のカツカレーを食べたくなる。七百円だが、揚げたてカツの、ボリュームたっぷりだ。辛いから、ついて出てくる氷入りのジョッキの水を、ガブガブ飲みながら食べる。 横丁は、合併してさいたま市に引き継がれたが、わたしの故郷の六日町と姉妹都市である旧与野市地区にある。客にも新潟県人がいるし、新潟県に旅行するひとも多く、その土産物が店内に置いてあったりする。六日町の名前の入った煙草盆も、その一つだ。 ところでカツカレーだが、これは上京して初めて食べた。故郷では、冬のスキー場の食堂でカレーライスを食べることはあっても、ほかはカレーライスもカツも母がつくるものだった。どちらもごちそうであり、そのごちそうを一度につくって一緒に食べるなんてことは、盆と正月を一緒にするようなもので、ありえなかった。 だから、上京して初めてカツカレーを食べたときの気分は「豪華」というほかなかった。 カツカレーの多くは、それ用のカツでサイズが小さめであるようだ。しかし横丁の場合は、まるでカツライスのカツのように大きいのである。 正直に言うと、わたしはジョッキの水ではなく、一緒に生ビールを注文してガブガブやることが多い。これだと、ほかにつまみはいらないし、ちゃんと食事にもなる。カレーライスにカツに生ビール、この豪快な黄金トリオともいうべき組み合わせが、蒸し暑い日には力が湧いてよいのだ。 ここに故郷の名入りの土産物まであるから、故郷の食堂に居る気分と同時に故郷を離れてからのことも思い出される。なにからなにまで一緒で贅沢なカツカレーなのだ。 写真=なにからなにまで豪快な横丁のカツカレー。 20、新潟清酒(02年6月17日) 梅雨空の下、その日の体調や気分にまかせ、燗酒でもよし。常温もよい。もちろん冷酒も飲む。 日本酒つまり清酒というと秋のイメージのようだが、しっとり湿った梅雨時と日本酒の組み合わせが醸し出す味わいに代替は効かない。やはりこの季節、湿潤な日本の地の酒であるとしみじみ思う。 そんな具合だが、さる五月、南魚塩沢町高千代酒造の「五月まつり」に参加して、杜氏の丸山正明さんの話を聞き一層、新潟清酒に関心を持った。 新潟清酒は一九七〇年代に「淡麗辛口」が確立し勢いがつくと同時に機械装置化がすすんだ。また、そのための投資が可能な時代でもあった。しかし、近年は清酒の消費は低迷したままで、機械化投資に頼ることのない、昔のような手作りが必要になっている。特に中小の酒蔵の現場は、それをやらなくてはならないし、丸山さんたちも挑戦している。おおよそ、こんな内容だったと思う。 丸山さんを含めて総勢七名のうち五名の製造現場の人たちが挨拶をした。 高千代の酒は東京では手に入りにくいのだが、わたしの周囲の飲兵衛のあいだでも、まだ均質化されてない「地酒」の味わいがあると好評である。 丸山さんは、佐渡郡佐和田町出身で四十七歳、この道二十二年。そして最年少、二級技能士の八木日出夫さんは中頚城郡吉川町出身で二十四歳。全国で唯一醸造科のある県立吉川高校を卒業して、経験五年。まだ「わからないことだらけ」という。 機械化したものを人の手に取り戻すのは容易ではないようだが、意欲的に取り組んでいる様子がわかった。その地道な努力の成果は、新潟清酒の未来にも関わることだろう。 写真=新しい手作りへの抱負を語る皆さん。杜氏の丸山正明さん(右端)と一人置いて最年少の八木さん=塩沢町。 参考リンク=高千代酒造 新潟日報連載もくじ |