ああ、1996年2月13日の大衆食の会通信

●今度の大衆食の会は2月23日ですよ。ナント、この日はワザワザ朝日新聞の大阪本社から取材があります。学芸部の記者のKさんとマンガ家の方が一緒に来られて取材するんだそうです。そして、大阪版の、「変わった活動をしているサークル」を紹介するコーナーに載せるんだソウナ。

なんで大阪版におれたち東京の大衆食の会なんだ、とムズカシク考えてはいけない。ようするに、このKさんという記者も、かなりスキモノらしいのである。スキモノに西も東もありゃしない。それに、たまたま、いまのところは東京にしか会員がいないけど全国的な会なのである。このあいだは熊本のどこかの小学校の教頭先生とかが竹屋食堂へ行きたいという連絡があったほどだものな。

ともかく。「手打ちそばの会なんていう、うどんの大阪じゃ手打ちそばなんてマイナーですよ、そんなのをマンガと一緒に紹介しているんですよ。それからタコ焼きの会なんてのもありますよ。大阪にはおもしろいところがたくさんありますよ。東京の大衆食の会が大阪の大衆食堂に殴り込みをかけるなんてのはどうですかね。ガハハハッ」

「イヤーおもしろそうですね。大阪でやりたいですね、ガハハハッ。でも、大阪まで行く金が問題ですね、なにしろ貧乏人ですから」「そうですね、こちらが行くのは出張費ですから」「そうですね、ジャいちおう 2月の23日の竹屋食堂ということにしておきましょう」「そうしましょう、そうしておきましょう。ところで、私、ホラ昔の万博みたいなのの跡地とか古い街の演芸場みたいなのがあるでしょう、ああいうのが今どうなっているか追いかけるのが好きなんです」「ははあ、はあ、あるある、おもしろいですね」「おもしろいでしょ、それじゃ」

要約脚色するとテナぐあいで。

2月23日は竹屋食堂でこのKさんとマンガ家をタップリ可愛がってあげましょう。そして、大阪にも大衆食の会をつくれ! と言ってやろう。当日は、 7時からの予定になっていますが、そんなわけで遠藤は早く行っていますから、何時でも都合のいい時間に参加ください。この日はインパクトのある竹屋食堂の常連たちと「遭遇」する可能性が大ですから、カルチアショックってなことがあるかも。それにしても、大阪のたこ焼きの会とかそういうのと交流してみたくなったな。大阪は大衆食のメッカだもんな。いつかきっとみんなで大阪へ行こう。

●1月は20日に竹屋食堂で26日に常盤食堂でやった。これはどちらの食堂も比較的すいていると思われる日と時間帯を設定したのですが、予想はズバリでした。しかし山の手の常盤は給料日後がヒマなのに、下町というか場末の竹屋は給料日前がヒマであるという、このチガイを、あなたきっと気づかなかったでしょうね。

●さてそれで、20日土曜日の竹屋食堂は一時半から始まった。遠藤が一番乗りで、つぎがW辺さん、つぎがK村さん、つぎがH内さんてな感じで、たぶんそのあとK良さんがY本さんというお友達と美酒一升ぶらさげてあらわれて、そのあとS岡さん、だったように記憶している。そしてたぶん6時ごろだった。酔っていた。突然、という感じで、そのときはもうK良、Y本、S岡、遠藤という顔触れが残っていただけだと思いますが、突然、錦糸町へ行こうということになった。それで新年の竹屋はおひらきになったのですね

●この日の竹屋食堂は運がよかった。ナゼナラあの四時にあらわれる「男の民俗」豆腐売りのジイサンに会えたからです。よかったですね。そして、湯豆腐もウマイウマイとくいましたね。H内さんと遠藤は、外においてあった豆腐屋さんの自転車、昔ながらの、いまの自転車の倍の太さはあろうかという黒い車体、それを支える△型のスタンドがついた自転車。その荷台には古い豆腐入れの木箱。箱のふちは釘の頭の上に銅飾りがかぶさっているという、なかなか昔の職人技をしのばせるに十分なものなのだが、銅飾りがとれて釘がむきだしになっているものが多い。そして木箱の蓋を開けると一段目の入れ物で油揚げなどが入っている。それを、さわったりながめたりして喜んだのであった。前のカゴに、水戸納豆が二つだけ何気なく無造作に投げ込まれてあったのが印象的であった。写真を撮っておくべきだった

●W辺さんは食堂が初めてで、なおかつ「あのホッピーってなんですか」と聞くのであった。すると、となりに座っていたK村さんが「アラあなた知らないのお嬢様だったのね」ナンテ初対面にしては遠慮なく。このへんが大衆食堂的会話の進行である。あの環境に入ると気取らないどころか、なんの気遣いもなく言葉がでるようになるから不思議だ。で、遠藤はひとまず「いや、あれはやっぱり昔は男の飲物でしたからね、女性は知らなくても不思議はないのですよ」と、おれの本を読んで電話してきたぐらいだからこんなことぐらいでは傷つくこともあるめぇー、などとなんの心配もせずに、それでも間をとりもつような調子のいいことを言うのであった。ともかく、大衆食堂の空間というのは、サディスチックな言葉を投げたり、マゾヒスチックな言葉を吐いたりして、それでいて、人間臭いというか人なつっこい。無遠慮な会話もおもしろいと思えるようになれる、またとないところなのであります

●ともかく昭和30年代にドップリひたったことでしょう。W辺さんは「初めて会った皆さんなのに何だかとてもなつかしいような不思議な時間でした」という感想を寄せてくださいました。K村さんは風呂場も見せてもらったはずですし、調理場が「キレイ」と驚き騒いでいましたナ。「室内の清潔さには驚きました」と手紙をいただいたほど。昔の人はね、忘れちゃいけない、清潔好きなんですよ。見た目は「便所臭い」だけど、実際はとても「キレイ」なんです。それが昭和30年代前半までのニッポンでしたね。だいたい夫婦で目の届く商売をしているところはキレイです。食中毒もおきない。大中規模の、組織のところ、システムのところで事故が多いし食中毒は発生している。見た目はキレイでも、目につかないところはホコリだらけだし、汚いんですよ。ほんとうに、シェーキーズとかファミレスとか、スーパーとかね、視線を置き換えてみると汚いところが多いんですよ

●26日金曜日夜の常盤食堂は、O野さんと遠藤、二人っきりでデイトという気分でした。初対面のO野さんは「大衆食の会なんて、誰がいちばん最後まで残るのかしら」などと、ズキンとすることをイキナリ言うんですね。ヤッ、やっぱり大衆食堂では遠慮のない会話がはずむ。「それはトウゼンおれが最後に残ります」と思ったが口には出さずに、O野さんはブリの照り焼き定食を、遠藤は愛するチキンカツ定食とポテトサラダにビールをたいらげた後、寒風吹き荒れる中を居酒屋めざして常盤食堂をあとにしたのであった

●遠藤のアタマは「大衆食の会最後の日」のイメージにとらわれたまま、酩酊の深淵にむかった。「このあいだの竹屋食堂のときに、K良さんというひとがつれてきたY本さんというひとがね、とてもイイツノルひとなんですよ。ちかごろイイツノルひとって少なくなったでしょう。なつかしかったなー」「そうね最近はみんなもうテキトウにおさめちゃうから」なんて。「あの魚柄とかいう台所のリストラとかいうの、一万円でとかいうの読みました? ああいうのどう思います? 」「そうねー、とにかくビンボウがウリになっているみたいで、そこがちょっとね。貧乏なんて自慢することじゃないでしょ」「そうですよね。あれって、女ならあたりまえというか、もっと苦労しているようなことばかりなんですよ」なんて

●遠藤はそこで、M岡さんからいただいた魚柄さんの本を思い出し、確かに、あれはひとつの「男の料理」であるにはちがいないことに気づいた。かってのゼイタクな男の料理の裏返しとしての男の料理なのだ。だが、ポストバブルの不慣れな貧乏人には即役立つ。そういうことだ。あの貧乏自慢は、いやおうなく貧乏生活を送ったものにとってはちょっと抵抗があるだろう。焼き鳥の串を一本たのんで貧乏なんていう話は、飲み屋に行くこともできなかったほんとうの貧乏人にとっては、よしてほしい話だろう。地方から出てきて自活しなくてはならない女たちの生活の苦労というか、切り詰め方、その間のミジメなおもいを想像することは、男にはむずかしい。女の高卒、専門・短大卒あたりは、男の新大卒給料水準に追いつくのに十年近くかかる。その間だけでも、社員寮がなければ、食費を「シボリ出す」生活がつづく。これは「節約をして」一万円であげる生活とは、およそ次元がちがうのだ。貧乏なんて自慢にならない、はやく貧乏をぬけだしたい。その一念で、ノーテンキな男たちや自宅通勤の女たちを横目に見て、ひねくれたくなる。秋葉原や御徒町や池袋あたりの中小企業にはそういう女たちがたくさんいる。遠藤はそんなことまで思い出し、もしかしたら、O野さんも地方から出てきて、そんなん日々だったのかなーと思ってみたり。しているうちに。終電になってしまった。これまた大衆食堂的会話と考察のひとときだった。O野さん、アンタだよ、最後まで残るのは。

●駒込のたぬき食堂についでがあって寄ったとH内さんから便りがありました。「凄すぎる! 」という感想。ま、あそこも、いまでは「異文化圏」ですね。でも、とん汁、よかったでしょ。あれ、ときどき煮詰まりすぎてることがあるんです(笑) 。

大衆食の会