『ヒロシ君と戦争』 小沢浩・小沢梅子著


(2001年5月31日記、2002年5月9日改訂復活)

浩さんは梅子さんの子供です。正確に言うと、明治生まれの梅子さんと達三さんの息子です。だけど達三さんは1981年に亡くなったので、この本の著者は母と子です。実際は親子三人の共著といっていいでしょう。

浩さんは、こう書いています。

父が整理して貼りつけてくれた六冊の画集の最初の二冊には、父のコメントや折々の所感が付されており、また、日記のなかにはほぼ半年間に及ぶ母との親子日記も含まれていて、全体としては、不十分ながら子供を軸とする戦時中の家族の営みと、そこでの意識のありようまでが、かなり鮮明に写し出されているように思われた。


ヒロシ君は、すでに日本軍が中国大陸で戦線を拡大し、いわゆる「南京大虐殺」の南京占領があった1937年(昭和12)に、生まれました。そして、1941年12月8日の真珠湾攻撃で知られる対英米宣戦布告があった、その翌年1月28日から、高等教育を受けた立派な教育者だった達三さんの思いつきで、絵を描くようになりました。

ヒロシ君が絵をかき、そこに達三さんが感想をつけて整理保管しておくというぐあいに始ったようです。それが、親子日記、日記となり、いずれも絵入りで、しだいに絵より文章が中心になりますが、戦後の1948年までの分を一部省略しながらまとめてあります。そして、いまでも90歳をすぎてご健在の梅子さんが、この方も明治女としては貴重な高等教育を受け教育の仕事に情熱を傾けてきたのですが、「母として教師として」ヒロシ君と戦争の時代を回想しています。

ご両親とも立派な教師でしたし、ということは戦中においては「軍国の教師」であり、ヒロシ君も立派な「軍国の少年」として育てられていました。

というわけで、この本も、いわゆる食文化本ではありません。しかし、脚色のない表現のほんのわずかな文章に、こんにちにいたるまでわれわれのあいだに多大な影響を残している、明治以後の日本人の食に対する意識の潮流が、ゾッとするほどリアルに描かれているところがあります。それゆえ、食文化史の貴重な証言であるといえますし、われわれの生きている時代の食文化について考えざるをえないのです。

ときどき、その時代の食文化を生々しく語る文章に出会うことがあります。短い文章が、われわれが忘れたか、忘れようとしている、意識の底にあるものを掘り返すのです。これは本書の4章の、梅子さんの著「母として教師として」の語りです。

とは言え、やはり日記のあっちこっちから悲しい思い出も蘇ってきます。浩の誕生日の事でした。お掃除より、お部屋の飾りつけより何より先ずご馳走をと、乏しい材料を前に腕をふるわんとしている矢先き、いつもより早く帰宅したお父さんの不機嫌な顔。

と、こんにちであれば、この不機嫌な顔は、亭主関白のわがままなオヤジが、子供の誕生日にもかかわらず自分より後に仕事から帰って来た妻にむけたもの、と想像されるかもしれませんが、そうではありません。それなら、まだ救いがあろうというものです。そうではなくて、まず急いでご馳走の準備にとりかかった妻に、むけられたものなのです。つまり。

そしていつもの決まり文句、食べる事にのみ心を用いる愚かさを指摘され、何か言い返したい衝動にかられたあの時、今は亡き夫の二番目の弟の吉隆さんと長男の一明ちゃんの来訪がなかったら、あの夜の誕生日のお祝いはどうなっていたでしょう。

じつに、梅子さんの悔しさ、情けなさ、やりきれなさというものが、ヒシヒシと伝わるところです。

このころは、すでに男子労働力不足で女も男と一緒に「お国のため」「銃後の守り」として働くのは当然のことでした。農業生産や工場生産に忙しかった。梅子さんなんか、もう模範的な軍国の教師であり妻であり母でありますから、ムチャクチャ忙しいのです。

しかも、なおかつ女は卑しめられ、選挙権も無く、「君子、厨房にはいるべからず」と男は手を染めることのない卑しい食事の支度をしなくてはならなかったし、その気がかりな食事のしたく、それも子供の誕生日のご馳走づくりに帰宅早々に何をおいてもとりかかると、そばで見ている夫たる男に、女はそれだから「食べる事にのみ心を用いる」愚か者なのだといわれなくてはならなかったのです。いやあ、たまったもんではありませんなあ。

だがしかし、これは夫の達三さんの個性の問題ではありません。わがままでも亭主関白でもないのです。達三さんは、当時の男としては、むしろ妻や子供のことを思いやる男でした。もちろんそれは軍国の家父長としてでありますが、その責任感の強さと熱血は並みではありません。だから、余計、悲劇的であるともいえるわけですが。

「食べる事にのみ心を用いる愚か」、とする歴史と文化が厳然とあったのです。それも、このように至極とうぜんな成り行きの行為ぐらいで、「いつもの決まり文句」と日常的にしつこく言われる状況があったのです。

このことは、先の『水のように笑う』の関川夏央さんの、「わたしは食べものの味には興味がない。そういう育ちかたをしたからだ」という「育ちかた」と、共通の背景があります。

関川さんは戦後生まれの、いわゆる「団塊の世代」です。この世代は学校では民主主義教育の真似事みたいなことをしていたかもしれませんが、育った世間の文化的環境は、ほとんど戦前のものでした。人間の意識は簡単に変わるものではありません。意識はかわろうとしても、方法や術は身につくには時間が必要です。彼は祖母から、男(女)は食べもののことに口うるさくするんじゃない、というような薫陶を日常的に受けながら成長したのです。これは、関川さんの特異な体験ではなくて、「男らしさ」「女らしさ」の一般的な教養あるいは躾でありました。生命の欲望つまり食欲を動物的な卑しいものとして、節制し禁欲しあからさまにしないことが、教養的な態度だったのです。

このことと、ちかごろの姦しいグルメな能書きオシャベリや、とくに男のプロの料理人や食文化系ライターやグルメ系ライターがエラソウにしていることや、やたら栄養価に偏向した料理は、同じ精神的土壌の文化であるとおもわれます。表裏なのです。つまり、われわれ日本人は、ごくふつうのいのちをつなぐ営みとしての食事と料理を、どういうものにしていったらよいかについて思考の成熟がないまま、まわりの状況変化、とりわけ食品のマス生産や国際化に押し流されるように、こんにちを生きています。

グルメ騒動のわりには、食生活のことは政治より軽んじられ、新聞社では政治部が威張り、生活の構想もないまま農業に補助金を出しながらとどめをさし、そしてあわてて「セーフガード」をやる。こういうこんにちと、無関係ではないのです。ガイコクに日本と似たような料理があると、すぐ日本のものは真似モノであり、日本の家庭料理は世界最低のものであるかのようにいう精神と無縁ではありません。

料理を「趣味」とする男が、多少うまいものをつくれるからといって、食事の席でとうとうとウンチクをたれ、臨席のひとたちの食事をまずいものにするといった例はしばしばありますが、これなど、まさに、こういう日本の食文化の歴史そのものなのです。

ま、そのあたりの話は次回の本にゆずりましょう。それはともかく、本書のタイトルは、達三さんがヒロシ君の画集の第二巻につけたタイトルからきています。真珠湾から一周年になろうとする1942年の晩秋と思われます。達三さんは、こう書いています。

浩君もあと二十年たてば立派に帝国の軍人として大東亜はおろか米本土へ敵前上陸するかもしれない。丁度この週を記念にこの第二巻が作られることになりました。浩君も戦争の色々の言葉を覚えて、毎日映画の印象やニュースなどの内容を書きつけています。そこで『ヒロシクンとセンサウ』と題した。

1943年9月5日、ヒロシ君は、防空壕づくりを手伝い、空襲の絵を描いて、ライスカレーを食べています。
同28日は、おれの誕生日ですが。ヒロシ君は、幼稚園で栄養補給のための肝油を飲まされています。

この本は、著者が富山県の方で、出版も富山市の桂書房というところです。富山と縁のある知人が貸してくれなかったら、見ることはなかったでしょう。

敗戦の年の1945年6月1日金曜日、ヒロシ君は学校が休みで、おとうさんが防空壕をつくるのを手伝っています。『ヒロシ君と戦争』(2000円+税 桂書房 富山市北代3683-1 TEL076-434-4600)

食文化本のドッ研究